メメント

両手いっぱいの好きなものについて

THE BACK HORN「幾千光年の孤独」|いちばんさいしょに教えてくれたこと

完全ランダム、気の向くままに恣意的ピックアップがモットーである。次のアルバムは、どれにしよう、そう思っていたのは半日足らずだったけれど、決定打になったのは、たまたまシャッフルで流れてきた「空、星、海の夜」だった。そのとき「あぁ、この曲について書きたい」と心が動いたのを感じたので、『人間プログラム』に決めた、というわけである。

この試みの醍醐味は、一つひとつの楽曲について書くことに留まらないらしい。どのアルバムにするかを迷いながら選ぶことも、なんだかとてもワクワクする。これは、ランダムに選定しているからこそ感じる楽しみなのかもしれない。

『人間プログラム』のジャケットは、至高の名画である。歌詞カードに縦横無尽に描かれている一つひとつの絵にザラつきを覚えては、ここで描画されたものは、紡ぎ出される歌同様にまさに生命活動の一環であることを悟らせもする。どの作品もそれぞれ絵心があってとても素敵。何度見ても、脈々と描き出される筆致に脱帽する。

たしかなのは「なんか好きだなァ」という直感みたいなものだけではあるけれど、彼らが創り出した作品に呼応することができるのならば、それだけで、ただうれしい。『ART THE BACK HORN』でも全貌をじっくり堪能できるので、いろんな場所で至福の贅沢に浸れますね。

気を改めて『人間プログラム』に収録されている曲たちを見つめたとき、その錚々たる顔ぶれに武者震いがした。実を言うと、卓抜した楽曲たちとどう向き合うのが自分なりの正解なのか、長らく思考を巡らせている。明確な答えは見つかっていないけれど、ただ言えるのは、素直に、心に浮かぶ声に耳を澄ませてみよう、ということだ。

桁違いに重厚な傑作だからこそ、真正面から徒手空拳で向き合えば、きっと言葉になってくれる。そうこうするうちに、過去を回顧することや、新たな出会いを果たすことのさなかで発露する真意が見つかるかもしれない。

私がどの順番でアルバムを購入したかについての記憶も、6th『THE BACK HORN』→3rd『イキルサイノウ』と辿ったところで早くも途絶えるわけだが、次に手にしたのは、1stだからという理由でおそらく『人間プログラム』だったように思う。

『イキルサイノウ』の1曲目である「惑星メランコリー」も驚愕したけれど、『人間プログラム』トップバッターの「幾千光年の孤独」も破壊力が相当凄まじいものだったので、強烈な印象を受けたことは言うまでもない。

もちろんその勢いは「幾千光年の孤独」のみに留まらない。このアルバムに収録された11曲が銘々の色を解き放ち、『人間プログラム』という傑作は圧倒的な存在感とともに形成されている。発売からどれだけの年数を経ようとも、その輝きも威力も増すばかりではあるまいか。

おどろおどろしい前奏が幕を開けると、「天国に空席はない」という衝撃的な発言から口火を切る「幾千光年の孤独」。この前奏を耳にすると、血が沸き立つような昂揚感に身が包まれる。身も蓋もない言い方をすると、この曲は、ただ、すげーかっこいい。ところで、そもそも幾千光年とはどれくらいの長さだろうか。光年という言葉の定義を見直しながら、これがどれくらい壮大であるのか改めて想像してみたい。

光年|

天文学で用いられている長さの単位の一つ。光が真空中を1年かかって進む距離を1光年という。光の速度は毎秒約30万キロメートルであるから、1光年は約9兆4600億キロメートル(1ly=9460730472580800m)に相当する。光年はもっぱら太陽系外の天体までの距離を表すのに用いられている。太陽系にもっとも近い恒星ケンタウルス座α(アルファ)星(日本からは見えない)は太陽から4.3光年、銀河系円盤の半径は約5万光年で、太陽系は銀河系の中心から約3万光年のところに位置している。われわれの銀河系からアンドロメダ銀河までの距離は約230万光年である。

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規模があまりにも大きすぎて立ち眩みがしそうだ。1光年が約9兆4600億キロメートルなのだからひとまず1000倍すると、9000兆4600億キロメートルになる。この段階で、ちっとも想像できないくらいに気が遠くなる距離であることだけは解る。

さらに上記の引用を参考にすると、光が1年かけて進む距離が1光年なのだから、幾千年もの間、宇宙空間を愚直に突き進みながら、幾千年後にその孤独を見ることになるということと咀嚼してもいいだろうか。幾千年も前の孤独を見るということを想像するだけでも、もう意識が遠のきそうである。が、途轍もなく壮大でロマンがある話であることは間違いない。

幾千光年の憂鬱が
降りそそぐ ビルの底
顔のないキリストが泣いてる
THE BACK HORN「幾千光年の孤独」、2001年

「幾千光年の憂鬱が降りそそぐ」だなんて、そりゃ「顔のないキリスト」も泣くわな。先述した光年を引き合いに考えると、卒倒するような憂鬱が降りそそぐのだから、ミロのヴィーナスも、サモトラケのニケも、欠けた両手を高々と挙げることでしょう。さて、冗談は一旦置いて、私の意識が途絶える前に照準を再調整しよう。「幾千光年の孤独」のなかで、個人的に印象深く思うのは、次の歌詞である。

ガラスの子供達
星空も飛べた事
忘れてしまうだろう
いつしか
同上

星空を飛べるくらい、子どもたちは様々な可能性を秘めている。それにも関わらず、忘却とともにそうした可能性が縮小することを切ないと思うような気持ちが、ここでは漂っている気がする。たとえば、真っ当な人間のふりをしようとしたり、ちゃんとした大人に擬態することを試みるとき、それと同時に、元の自分にはあったはずの大切な何かが失われていくような、忘れてしまうような感覚を覚えることがある。

それは、ひょっとすると子どものように柔軟で、純粋な心のことではないかと思う。というのも、「こうあるべきだ」という鋳型に自分を半ば無理やりに流し込むことで、柔軟な発想は身動きが取りにくくなっていくからである。

たしかに、社会的な認識として「こうあるべきだ」という思想は、もちろん必要な要素ではある。しかしながら、この枠組みのなかに自分を押し込むことは、自分を制限することでもあろう。ちょうどいい塩梅を保つことができればそれに越したことはないが、それも容易ではない。

「こうあるべきだ」に則って自分を加工することも苦しいし、「こうあるべきだ」という枠組みから外れ、世間一般から少しズレて過ごすこともまあ苦しい。どちらに転ぶとしても、とどのつまり苦しいことに変わりがないならば、後者を選ぶ方が、その選択を悔やむことはないかもしれない。なぜならば、端的に言えば自分を偽らずに済むからである。このとき、大切な気持ちは、苦しいなかでも失わずに済むのではないかと、私は思っている。

ひとは、状況に応じて自身を象りもする。そのとき、変わらないもの、変えてはならないもの、主軸に据えるべきものが存在していることも事実なのだろう。たとえそれが苦しいのだとしても、自分が自分であることを偽らず、取り繕わずに表現するという心意気は、THE BACK HORNの音楽にあって中核をなしていると感じさせる。

この情緒は、きっとはじめのときから、ずっと保たれているのではないだろうか。たとえば、彼らの楽曲のなかで感じられるひりつくようなこの痛みだとか。

わたしたちは知らないあいだにいろんなものを失っている。失いながら生きていく。いまじぶんにできることのうちからどれかを選ぶことが生きることなら、生きるということはそれ以外のいくつかのなしえたかもしれないことを棄てていくということだ。わたしたちが失ったもの。そうでありえたかもしれないじぶん、でももうそうはなれないじぶん。それを哲学者の九鬼周造は、『遠い遠いところ、私が生れたよりももつと遠いところ、そこではまだ可能が可能のままであつたところ』(『をりにふれて』)と書いた。
鷲田清一『じぶん・この不思議な存在』、講談社現代新書、1996年

生きていく過程にあって何かを失うことは、不可避であり、不可逆なのだろう。失った対象によるとはいえ、こうした経験は、自身が引き裂かれそうになるくらいに苦しく、悲しい。立ち直るまでに費やす時間は計り知れないし、一縷の光も差さない道を暗澹たる思いで歩き続けることもあるだろう。

ただ、その渦中にあっても、どうにか自分自身を誤魔化さなければ、自分の定点を見失うことは、きっとないはずである。それは、いちばんさいしょの「幾千光年の孤独」が教えてくれたことである。