メメント

両手いっぱいの好きなものについて

THE BACK HORN「赤眼の路上」|静寂と轟音を掌握した凛々しさ

「赤眼の路上」ってどんな路上だろう。赤信号とか、赤いテールランプとか、工事用の赤色灯が照らした路上のことだろうか。

真意はさておき、「赤眼の路上」のなかで描写される凛然とした空気と水月がキリリとしていて何よりも鯔背。静寂を切り裂くように掻き鳴らされる前奏は、まるで生命活動の兆しを感じさせる。THE BACK HORNらしい力強さが充溢した「赤眼の路上」。ここでも生命は、熱情に突き動かされながら藻掻いている。

行き場のない鬱屈の暴発をどうにか飼い慣らし、自分自身を説得しながらなんとか宥め、腑に落ちない感情を携えて歩いていく姿が浮かぶ。静寂と轟音が絶妙な塩梅で手を取り合っているところも印象深い。「赤眼の路上」には、THE BACK HORNが収斂されているかのようだ。鬱屈と熱情が交差する場でもある「赤眼の路上」。私はこの曲がとにかく好きだ。この曲に背中を押してもらっているから、おかげさまで私は、ちゃんと歩けているよ。

逡巡の果てにようやく見つけた答えに対し「これでよかったのか」とたびたび訝ることがある。それでも、やっぱりこれしかないと迷いながら歩み続けてみる。するりと円滑に進むことばかりではないから、不満げに口を尖らせたりなんかして。

こうした葛藤の末、もう生きるしかねぇだろうよ、と中指を立てるような勢いで前向きな諦観を引っ提げて生きるさまは、THE BACK HORNならではと思わずにはいられない。晴れやか、とまでは言えずとも、何かが吹っ切れて凛とした雰囲気を纏っているところが、非常に美しい。

答えはいらないそんなの嘘だろう
誰もが生きてく理由が欲しいだろう
THE BACK HORN「赤眼の路上」、2003年

開口一番、核心をついた所感が投げかけられる。生きていく理由について、一度も問わないひとはおそらくいない。しかしながら、何はともあれ生きよう、と思えるような動機付けは、一体どこに存在しているのだろうか。

例えば「好きな曲が増えた」、「新しい服を買った」、「友達と遊ぶ約束をした」、「旅行に行く予定を立てた」など、明日に向かおうとする小さな意欲の結晶が、もしかすると「生きてく理由」と呼べるのかもしれない。

とはいえ、「赤眼の路上」で語られる「生きてく理由」というのは、小さな意欲の連なりというよりも、使命感を抱けるようなもっと大きな理由を指し示しているようにも思える。ただ、憶測に憶測を重ねても、私の真意は出てこなそうなので、あくまでも個人的な意見として、私が考える「生きてく理由」について、ここでは話してみたいと思う。

「生きてく理由」と聞いて思ったのは、どこか満たされない心を少しでも埋められるような小さな理由が集まれば、ちょっとはマシになりそうだ、ということ。都合よく「生きてく理由」が娑婆に落ちているわけもないだろうけど、小さな楽しみならば、少しは見つけやすいはずである。明日に向かうための小さな楽しみを束ねれば、明日のみならず、今後も生きていこうと思える気骨になるかもしれない

。自分自身に言い聞かせるようにこねてみた理屈だけれど、あながち的外れでもなさそうだ。だって、この小さな楽しみを俯瞰して見ると、きっとそれは「生きるために生きる」行為とも言えるのだから。

ただ、小さな楽しみがあろうとも、どうしたって多かれ少なかれ不満を抱えてしまう。しょうもない仕事とか、しょうもない人間関係とか。そのほかのしょうもないこと以外にも、何かしらの苦痛に悶えることは往々にしてある。そんなときに、そんなときだからこそ、この言葉をポケットに忍ばせ生きてみれば、思ったよりも強い気持ちでいられることに私は気付いた。

埋もれてたまるかこんな日々に
同上

どれだけひどい毎日であっても、この言葉を語尾につけると俄然強気になれる。こんなしょうもないところで消耗している場合ではないだろう俺は!と、狭くなっていた視野と苛立ちから自身を解放してあげることができるのだ。だからこの歌詞は、自分を立て直すことができるおまじないでもある。いつも傍らに、THE BACK HORNを。これは、間違いない判断だ。

繰り返しになるが、「赤眼の路上」の魅力は、静と動の調和にもある。何かが始まることを自ずと確信させる音の運びは、何度聴いても心地よく、胸が高鳴る。そして、ここから予兆される生のダイナミズムに息をのむ。

絶望孤独月明り
死にゆく勇気なんてない
それなら生きるしかねえだろ
息をつめて駆け抜けろ
風を受けてまた立ちあがれ
同上

月明りと並列される絶望と孤独、ここで表現されているのは、おそらく追い詰められた状態であろう。しかしながら、ここには月明りに照らされた一縷の望みがたしかに残されている。

月影に照らされて見えてきたのは、「死にゆく勇気なんてない」という本音なのかもしれない。この脈絡で「それなら生きるしかねえだろ」と己に言い聞かせているさまは、苦悩を浮かべていながらも、凛としていてとても潔い。葛藤を身体に巻きつけながらも、ほとほと思い悩みながらも、蹲っている場合ではないんだよ。だから、「息をつめて駆け抜けろ」、そう自身を奮起させる言葉に、私自身も何度も何度も背中を押してもらっている。

ときにがむしゃらに走ってみたくなるのは、内側に飼っている何かが自身を喰い破って出てきそうだから、どうにか制御しようとしているのかもしれないね。

独り描く その輪を越えて
世界さえも喰い尽くしてやれ
蒼く燃える熱情だけが
道を照らしてゆく
同上

彼らの熱情は蒼い。それは赤い炎よりも蒼い炎のほうが高温であることと同義であり、何よりも切実であることに等しい。煌々と輝く蒼を灯にすれば、これから行く先々で出くわす障害物に屈しようとも、たとえ立ち止まらざるをえない状況に陥ろうと、歩みを諦めることはないだろう。次の一歩を踏み出すための確固たる支えになってくれる「赤眼の路上」。諦めずに何度も立ちあがるための歌がここにはある。

ひょっとすると、今、ライブで一番聴きたい曲かもしれない。「赤眼の路上」について書きながら、そんなことを思いました。次に聴ける日を心待ちにして、「埋もれてたまるかこんな日々に」と適宜反抗しながら、ほどよく淑やかに生きましょう。私が行く先を照らす灯りは十二分に眩しいから。